「私には価値がない」ツインレイとの出会いで気づいた、魂の傷を癒す方法

砂上の楼閣:ツインレイの学びが暴いた「無価値感」という鎖

ツインレイの学びの中で、
私が直面した問題の一つが「無価値感」です。

恋愛に限らず、
普段の人間関係や仕事など
あらゆる社会的な場面において、

私は、ずっと、
素の自分=ただの「私」では
周囲の人たちから受け入れてもらえない、
という思い込みと一緒に生きてきました。

なぜなら、
その集団や相手にとって有用でないと
存在することを許してもらえない、
仲間として認めてもらえない、
という恐怖心が
私を支配していたからです。

そうは言っても、
それを自覚していたわけではありません。

本当に無意識に、

・役に立つ人
・色んなことをできる人
・自分が我慢してその場を丸く収める人
・誰かと誰かの間に入って調整する人

つまりは、”都合の良い人”や”できる人”でないと
いけないと思っていたのです。

もちろん、
難なくできることなら問題ないのですが、
時にはできるフリをしたり
無理をして後で帳尻合わせをしたりすることもあり、
実際にはとても苦しいことが多かったように思います。

そのうえ、
それが周囲にバレてはいけないとも思っていましたから、
必死に自分を取り繕い、
いつ化けの皮が剥がれてしまうかという
怖さを抱えながら過ごしていました。

そして、
メッキで立派に見せかけているだけだということを
自分でよくわかっているので、
なおさら自分の価値のなさを感じるのです。

「砂上の楼閣」

私は自分のことをそう呼んでいました。

素の自分には存在価値がないだけでなく、
それを隠して
必死に取り繕う自分を心底蔑んでいました。

だから、
どんなに他人から褒めてもらっても、
手放しで喜べたことなんかありません。

得るのはほんの一瞬の安堵だけ。

またすぐに、
次失敗したらどうしよう、
という不安にが押し寄せてくるのです。

そういう生き方しか
知らなかったんです。

無価値感は心の防御システムだった:「条件付きの愛」の歴史を労う

ツインレイの学びが
自分に降りかかり、

こんなに息苦しく、生き苦しいのは
何かヘンなのではと思い始めた頃、

ある心理カウンセリングのブログ記事が
目に止まりました。

そこには「無価値感」について書かれていて、
私の苦しみの元はこれだったんだと知りました。

無価値感というのは、
その名の通り”自分には価値がない”と感じること。

無価値感に悩む人は少なくないそうです。

また、無価値感が形成された背景には、
家庭や学校などで
「優秀でないと褒めてもらえない」
「役に立たないと相手にしてもらえない」
といった”条件付きの愛”しかもらえない経験をし、
悲しい思いをしたというそれなりの事情がある、
とも書かれていました。

「愛されるための条件」を
自分の外側に設定してしまった”歴史”が
たしかに自分にあったんだ、ということ。

まずはそのことを、理解する。

無価値感を持つことが良いとか悪いとかではなく、
自分の人生にそういった経験があり、
そこで自分が傷ついた流れがあった。

必死に”できる人”を演じようとすることは、
プライドが高く高慢な性格だということでは決してなく、

実は「もうあんな悲しい思いはしたくない」という
自分を守るための精一杯の防御システムなわけです。

私はこの記事を読んだ時、

そういった状況の中で、
今日まで自分が生きてきたということを
まず労ってあげようと思いました。

いつも自分自身を罵り、蔑み、
鞭打ってきた私ですが、

この時初めて、
「自分、頑張ってきたやん…」と
思えたんです。

そして、
こんなにボロボロで情けない姿を晒しながらも
私は今までたしかに一所懸命に生きてきた、と

生まれて初めて自分の頑張りを、
結果や成果ではなく、
プロセスを認めようと思うことができました。

サイレント期間が映し出した真実:ツインに価値を求める自己の崩壊

かつての私は
「自分には価値がない」と思っていたので、

ツインの相手から
褒めてもらうこと、
すごいと言ってもらうこと、
役に立ったと思ってもらうことなどが
私の行動原理になっていました。

相手に認めてもらえる、
必要とされることで、
自分の価値を測っていたんです。

けれど、
サイレント期間に入ったことで
そういった相手との直接の関わりが消え、
私は自分の価値を測る術を失いました。

私は、気が狂ったように
相手を欲するようになりました。

会いたい、
LINEの返事が欲しい、

こういった願いはすべて、
元をたどれば

自分に価値があることを知って安心したい。

この一言に尽きると思います。

”誰かにとっての私の存在価値”がなければ
この世に存在することが許されないわけですから。

でも、当時の私はそれを
相手を愛するが故の気持ちだと勘違いして、
必死にしがみつきました。

そして、
そんな自分の苦しみをどうにかしてほしくて、
そのままLINEで相手にぶつけてしまいました。

「ごめん。」

という一言だけが、返ってきました。

私に何を言っても無意味だと思ったのでしょう。

”ごめん”の後ろに、
言葉にできないたくさんの思いがあることだけは
わかりました。

私はもう元には戻れないことを悟りました。

私が自分でそう仕向けたのだと思います。

自分の問題と向き合う覚悟を決めるため、
退路を断つため。

彼は何も言わなかったのではなく、
「今、あなたが向き合うべきはあなた自身だ」という
最も深い愛を

「ごめん」という一言に込めて
返してくれたのだと、
今なら理解できます。

「Do(行動)」から「Be(存在)」へ:真の自己価値を再定義する

無価値感を克服するために
私たちがまず知るべき真実は、

『あなたの価値』は
『他者からの評価』ではないということです。

何かができるとか、
賞をもらうとか、
そういった価値も、
たしかに素晴らしい。

でもここで問題になっているのは、
自らの行動に対する外から与えられる評価ではなく、
自分でどう思うのか、ということ。

私は長い間、
いくら自分で自分を認めても、
他人に評価してもらえなければ、
すごいと思ってもらえなければ、
意味がないと思っていました。

だから、
”他人に褒められる自分”になるために
何をするか、何を身に付けるか、
ということに必死だったんです。

だけど、
この学びの道で一貫して突き付けられるのは、

「自分はどう思うのか。思ったのか。」
という、自分への正直さ。

自分の思いと行動にズレがない時に初めて、
私たちは幸せを感じることができます。

自分に嘘をつかない。
自分の感情を無かったことにしない。

結果や他人の評価はどうであれ、
「これでいいんだ」と自分で思えること。
それこそが行動原理としての”在り方”です。

ツインレイの学びは、
そのような在り方に転換するよう
私たちに教えてくれているのです。

「そんなのは絵空事だ!」と
あなたは言いたくなるかも知れません。

私もそうでした。

今まで誰もプロセスを認めてくれなかったじゃないか、と。
結果ばかり追い求めるように仕向けてきたじゃないか、と。

だからこそ、なんです。

自分を認めることが
どれほど大切なことであるかを知るために、

私たちは
”認めてもらえない苦しみ”を
いったん味わう必要があったんです。

本物の自己受容を手に入れるために。

鎧を脱ぎ捨てる実践:「役に立たない私」を許すアファメーション

自分で自分を認め、受け入れること。

そのために私が取り組んだことは、
自分の感情を無視しないことと、
できない自分を許す練習。

私は、こんなアファメーションを唱えていました。


✶⋆。˚⋆。˚✶⋆。˚⋆。˚✶⋆。˚⋆。˚✶
上手くできなくていい。
失敗してもいい。
役に立たなくてもいい。
やりたいことだけやっていい。
わがままを言っていい。
ウザがられてもいい。
気が利かなくてもいい。
断ってもいい。
頑張らなくてもいい。
私は私、あなたはあなた。
✶⋆。˚⋆。˚✶⋆。˚⋆。˚✶⋆。˚⋆。˚✶

つまり、”できる人”だと思われるために
今まで自分に課してきたことを
いったんゼロベースにしたんです。

その上で、やっぱりこれはやっておこうと思うのなら、
おおいに頑張れば良いとしました。

はじめのうちはとても抵抗感がありました。
存在の許可を自ら捨てるわけですから。

失敗してもいいなんて、
誰からも言ってもらったことないですし、

「相手の期待を上回るのが普通」
「失敗したら、即、死刑」

そんな厳しさを自分に向けてきたんですから、
そう簡単に頭が切り替わるわけはありません。

ただ、よくよく考えてみると、
私は今まで、そうやって、
存在する許可をもらうために、
それをする/しないの選択肢がなかったんだと
いうことに気が付きました。

自分が望む望まないにかかわらず
一つしかない正解をひたすら追いかけるだけの日々に、
私は疑問を投げかけたのではなかったか?

自分がどれほど頑張って生きていたかは
自分が一番よく知っている。
私にだって幸せになる資格はあるはずだ。
そう強く思ったのではなかったか?

そう思い直して、
私は誰の役にも立たない自分を目指しました。

正確には、
上手くできなかった時に自分を責めない、
無理しそうになったらストップをかける、
他者の言動で自己肯定感が下がりそうになったら
「私は私、あの人はあの人」と線引きをする
といったようなことをすることで、

自分の心を守るように
気を付けるようにしました。

”できる人”だと思ってもらう必要がなくなることで、
私には、それをする/しないを選ぶ自由が生まれます。

その時、何を基準に行動を選択するか?

それこそが、
自分の本音に従って決める、
つまり”自分軸”というものなんですね。

このような取り組みを通して、
私は少しずつ、
ぐだぐだな自分でもとりあえず生きていていいらしい
ということがわかってきました。

そして、ダメな自分でも
自分が恐れるほど周りからは責められないということも。

こんな風に思えるようになったのも、
やはり、
サイレントになって自分の存在意義を確かめる術を
失ったことで、

もういい加減、向き合わざるを得ない。

と腹をくくれたからだと思っています。

メッキではなく本物の輝きへ:鎧を脱いだ「ただの私」の自由と愛

自分に価値はないという悲しみは、
裏を返せば
本当は自分に価値があることを知っていて、

それが今現在の自分の在り方と
繋がっていないということを知るためのバロメーター。

私は自分をピカピカの金メッキで光らせ、
たくさんの飾りや武器で立派に見せかけていました。

でも、それは本当の私の魅力とは違うと
気付いていたから、
そんな嘘で塗り固めた鎧を着て生きることが
つらかったのだと思います。

立派な鎧は、たしかに、
私の身を守ってくれました。

けれど、もうその鎧を着続けなくても
私は私を生きるだけの力がついた。

ツインレイの学びは、
そのタイミングを教えてくれたのだと思います。

「この鎧、どうしようか…」

私は鎧を叩き壊すことにしました。

そして中から出てきたのは、
つやつやに光る、にこにこの自分。

「あぁ、私、こんなだったんだ。」

言葉では言い表せないような
大きくて深い安堵感が
腹の底から湧いてくるのがわかりました。

立派じゃないけど、
すごくもないけど、

それはとても尊いもののように思えて、
私は「これでいい」と何度もうなづきました。

✼✼✼

誰でも多かれ少なかれ、
自分を飾る部分はあると思います。

そうしなければいけなかったという
それなりの事情があるのだとも思います。

だから、
砂上の楼閣であろうとなんであろうと、

それ自体は
あなたの尊い生き様だと
私は思っています。

けれど、もしあなたが
メッキの輝きではなく、
本当の自分の価値を知り、
それを存分に発揮することで、
輝きを放てるとしたら、

そんな生き方をしてみたいと
思うのだとしたら、

「私には価値がない」から
「価値がある」という世界に
シフトしていってほしいと思います。

生き残るためにこの鎧を着るしかない、
ではなく、

この鎧を着てもいいし、別の鎧を着てもいい。
鎧を着なくてもいい。

そんな風に、時と場合に応じて選べる自由を
どうか手に入れてほしいと願っています。

大丈夫。
これを読んでいるあなたには、
すでにその資格が十分にあるのですから。

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